今日は
クリスマスおめでとうございます♪
あまりこのブログでは書いていないことなのですが(あたりさわりのないこと、では、決してないですし、私の思うように理解されないかもしれないと思うとコワイという気持ちもあるので、オフラインでごく親しい人にだけ時折話すことです)、私はプロテスタントのキリスト教信者なので、教会に通っています。今年のクリスマスでは、中学生、小学生の3人が洗礼を受け、大人の洗礼式とはまた違った感動がありました。
信仰はやみくもにすがるものでも、誰かや何かに道徳めいたことをたれることでもなく、ただ人生に寄り添うものだなあ、と最近思います。これから、いつ来るかもしれない人生のどんなどん底にも、世界がどんな暗い時代になっても、心に希望の二文字があることは、私にとって幸せなことです。クリスマスという日はキリスト者にとっては、そういったことを再確認する日のように思います
ただ日本で、自分がキリスト教徒であることを言うと十中八九言われるのが「敬虔なクリスチャンなんですね」ということ。
「敬虔な」ってね〜…
私、あまり好きな言葉ではありません。いや、そりゃあ、たしかに敬虔な信者の方は多くいらっしゃいますし、尊敬はしています。ただ、「敬虔な」という形容詞って、クリスチャンにしかつけられなくないですか?たとえば、あまり普段「敬虔な仏教徒」とか「敬虔な神道信者」とかって聞きませんよね。(大部分の日本人の信仰心のベースはそのへんなのに)だからこそ、なんていうか…世の中の人の「クリスチャンとは敬虔であらねばならないものなのだ」という偏見が、ちょっとイヤなのです。
誤解を招くかもしれませんが、私がキリスト者となれた一つのきっかけは、結婚もし、病気も一段落し、人生の最初の波をひとまず乗り越えることができたときに力が抜けて「そうか、こんな程度のわたしぼっちでも、いいのか」と思えたからということがあります。そうなると、自分の死に支度の一つとして、「死ぬときに『どうやって生きたか』ことをあかしたい」と強く思うようになったのです。信仰なく生きて、死んだ後に、家族の手によって勝手にホトケにされるのは、私はいやだと思ったのです。
これから、恐らく長いと思われる人生。でも、もしかすると明日にも何かの事故で途切れてしまうかもしれない人生。その人生を、私は自分の求める死に方のために、自分の気持ちに添って生きたいな、と思ったのです。
敬虔でなくとも、知識がどれほどまでになくとも、いわゆるいい人でなくとも、むしろ心の中には悪態とかウソとか愚痴とかがいっぱい詰まっていても(笑)、人間なんて多かれ少なかれこんなもんじゃん、たとえ世界中の誰からも認められなくなったとしても、ただひとりだけ、ただひとつだけ、私を許してくれる存在があればいいんだ、
そういう程度のもんでした。
こんな私は、決して「敬虔な」クリスチャンではありません(笑)。たぶんね。相変わらず愚痴も多いし、わるぐちだってかげぐちだって言うし(笑←あかんやろ)。人としてもどーかと思われる幼児がえりっぷりですけれど(笑)。
いわば「ふつうのクリスチャン」としてやっていこうと思っています。
ともあれ、私はさほど長くない人生で、ちょっとした経験を経てから受洗をしましたけれど、今日受洗した子ども達は、これからの人生でもっともっとさまざまな経験をすることでしょう。暗闇を歩くことだってあるかもしれません。でもそんな時にも、誰からも、何からも縛られることなく、自分の信じる存在にのみ心を委ねて生きることができるように、と思いました。
ちょっと長くなっちゃいましたが。
でも、今日はさすがにこのところの疲れとか、冷えとかが一気に来たのか、さぶけと偏頭痛が襲ってきて、午後からの行事には失礼しました。ううう。
途中で温かいものを外食して、帰宅して、電気毛布にくるまってばたんきゅー。気づいたら夜も7時でした。
一眠りしたらちょっと頭痛は治まっていましたが、明日からもなんだかんだと忙しいので、無理しないでおこう…。